西粟倉村とアミタとトビムシのこれまでとこれから
2009年4月 1日 22:49 カテゴリ:トビムシについて 共有の森ファンド 地域づくり 地域再生 西粟倉村 コメント(0)
本日より西粟倉勤務となりました。とは言っても、今週は引っ越しでバタバタしていて、
週明けは出張に出るため、西粟倉村事務所に出勤するのは4月8日からです。
なんで西粟倉村なんですか?と聞かれることがあります。
端的に答えるなら、多くの人々の意志により必然的に生まれたと思える「縁」が西粟倉村に
あったとううことになります。
本日2009年4月1日は、非常に大きな節目ですので、西粟倉村とアミタとトビムシの
これまでのことをこのブログで整理しておきたいと思います。
アミタ社と村とのお付き合いは2004年から。総務省の地域再生マネージャー事業という
ものがその年からスタートし、アミタ社は西粟倉村の地域再生マネージャーとして、
村おこしのお手伝いをさせていただくようになりました。3ヵ年継続を原則とする事業で、
2004年から2006年の3ヵ年に渡り、アミタ社は西粟倉村の地域再生マネージャーを
努めさせていただきました。政策的には、分厚い報告書よりも具体的な成果が
コンサルタントに求められるという事業が始まったということが画期的で、経済産業省
などでもそのような成果重視の事業が出始めていたころでした。
すでにアミタ社は、京都府の京丹後市(当時は弥栄町)の地域づくりに関わり始めて
いて、リサイクルの会社ではなく、幅広く環境を切り口とする仕事を手がけ始めていて、
地域再生というテーマは、社長の熊野が自ら前線に出て切り拓こうとしていた分野でした。
西粟倉村にとって、2004年という年は、地域再生マネージャー事業が始まった年という
よりも、もっともっと重要な決断がなされた年でありました。
合併協議から離脱し、自立の道を選択したのです。
これは今でこそ、「村として残ったのは正解だったよね!」といろんな人が言うのですが、
合併していくことが当たり前で、国を挙げてそれを推進するなかで、過疎と高齢化が
進む村が、その社会の大きな流れから離脱するということが、どれほど勇気がいる
決断であったかということは想像に難くありません。
村の未来を大きく左右する、大きな大きな決断であったと思います。
そのような勇気を振り絞っての大英断がなされ、村が村として生き残っていくために
どうしたらいいのかという議論が本格化するタイミングで、アミタ社は地域再生
マネージャーとして村に関わり始めたのでした。
私はそのときはまだ某銀行系のシンクタンクに在籍していました。
森林・林業から農山漁村・農林水産業へと分野を拡大し、仲間を増やしつつも、
そして地域の変革に寄与する仕事を成し遂げることの難しさにもがいている
時期でした。
シンクタンクを辞めて、アミタ持続研を設立することになったのは、西粟倉村の
地域再生マネージャー事業が2年目となる2005年でした。
2004年の西粟倉村の地域再生マネージャー事業にもどります。
アミタの社長である熊野が自ら毎月毎月西粟倉村に足を運び、関係者と
激しい議論を重ねていたようです。地域再生マネージャー事業を他地域で
担当することになった多くのコンサルタント会社が、分かり易い成果を出す
ためにとりあえずのアンケート調査をやってみたり、安易なイベントを企画
してみたりしているのとは全く違うアプローチでした。
熊野は、事業家の本能でしょうか、これからの時代を村が村として生きていく
ために、大事にしないといけないことが何なのかを徹底的に議論するということに
とにかく膨大な時間をかけていたようです。
1年かけて生み出された重要な成果は1つ。「心産業」という地域づくりと産業振興に
関するコンセプトです。心と心をつなぐことで価値を生み出していくという産業の
あり方であろうと私は理解しています。村の人もそれぞれの理解をしているかと
思いますが、議論に議論を重ねるなかでつむぎ出された「心産業」というコンセプトは、
村の主要な人々の心の向かう方向を合わせていくことになったようです。
目先の売上を伸ばす、コストを下げる、赤字を小さくするという努力も並行して
動いていたわけですが、振り返ってみて、これが非常に大きな成果だったのでは
ないかと思います。
そして2005年、2006年と、徐々に具体的な動きが出てきます。
村有林でのFSC森林認証の取得。森と木に関わる若者たちが集まっての
木薫の設立などがありました。
しかし、3年間かけて地域再生マネージャーとして村に関わり、具体的に
村が過疎の悪循環から離脱できたのかというとそうでもありません。
未来につながる芽がいくつか出てきたというだけです。
残念ながら、地域再生をなし得たとは言い難い状況のまま、期限が来ました。
契約が切れたところで仕事も終るというのが、コンサルまたはシンクタンクの
通常の姿でしょうが、ここからのアミタ社のつっこみ方は、非常に非常識でした。
上場もして、今ままで以上に利益を出す姿勢が求められる状況にあって、
短期的な利益は無視したアプローチが2007年から2008年にかけて続きます。
2006年から西粟村の担当が持続研になり、自分はその責任者でしたから、
組織単体としても利益を求められる中で、開発案件という名目で人をつっこみ
続けるというのは非常に苦しい作業でした。
2008年ごろから、村も新しい段階に入ろうとしていました。
合併せずにぐっと我慢する財政状況がしばらく続いたのですが、その成果も
あって攻めに出るゆとりも出始めていました。
また2007年度から雇用対策協議会が発足し、森や木関わる仕事を行うIターン者の
受け入れ態勢が確立されてきました。
そして、「森の再生の村の未来をかける」という、2004年の合併離脱以来の大きな
決断が村長によってなされ、強い攻めの姿勢へと転換しました。
2008年に百年の森林構想が掲げられ、この2009年4月からは構想が事業になり、
百年の森林事業が開始することになりました。
2004年からの数年は、村の主要な人々の間で議論が行われた分けですが、
2008年は百年の森林構想の実現に向けて12あるすべての地区で繰り返し
意見交換が行われました。そして、村民の合意が得られ、事業が開始されることに
なったのです。
地域をほんとに再生させていくためには、ダイナミックに人やお金を動かし、
地域というさび付いたエンジンをオーバーホールして再稼動させる仕掛けがいる
ということから、金融も活用しながら森林再生を手がける(株)トビムシを2009年2月に
設立し、共有の森ファンドの第一号を西粟倉村で実施するにあたって、この4月に
現地事務所を開設し、自分自身は東京からそこに転勤するという流れになりました。
私としては、ようやくコンサル業を卒業して、地域再生を支える仕組みを構築し運用していく
事業へと転換していくことができました。
2009年からは西粟倉村の営業本部とも言うべき「森の学校」が発足しました。
そして、やる気と能力のある方々が続々と終結しています。
2004年の合併離脱という決断が起点となり、いろいろな人たちが悩み苦悩し、
もがきながら徐々に形が出てきて、たくさんの人々の決断が重なり、大きな
飛躍を実現しようとしています。大きく飛躍しないといけなぐらい、大きな壁に
ぶち当たろうとしているとも言えます。
コンサル業というのは、お金もらって逃げるのが一番効率よくて確実なビジネスに
なるのですが、そこから離脱してあえて難しいビジネスを構築しようとする愚直さに
アミタの精神があるのだと自分は捉えています。
共有の森ファンドでは、1000人もの人々に投資という手段で西粟倉村の
森づくりと地域づくりに参画していただきます。これは相当重い責任を、
村も森林組合もトビムシも背負うことになります。でもそこまでしないと、悪循環の構造を
変革していくことはできないということも確信しています。
この4月は新しい船出のとき、ワクワクする冒険の始まりであり、そしてそれは
大きな試練の始まりでもあります。



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